MENU

ブログの限界、さてどちらに行くべきか

ブログを書く理由として、「ただ書きたい」を除けば、「自分の思考が整理できる」。「日記代わり」、「思考のメモ」、等々色々あると思います。
いずれも、ここに書いている限り、人に読まれるのが前提になっています。

この「人に読まれる」というのが、当たり前と言えば、当たり前ですが、とても大きなことです。つまり、人の目を気にする。どう思われるか、どう評価されるか。このNoteでも、スキやフォロワー数が、一応その目安の一つとされています。

本当は、心の中でとんでもないことを思っていても、人の目を意識したとたん、激しいブレーキが掛かります。言っていいこと悪いこと、常識が入り込みます。
もちろん、有名インフルエンサーではないので、そこそこの暴言、極論は大目に見てもらえるでしょうが、やはり、「これを書いたら不味いよな」という気持ちは拭い去れません。ある意味、ブログとは、この意識との戦いと言えます。

有名なインフルエンサーの人も、昔は面白かったのに、どこか日和りだしたらな。とか、つまんなくなったなとか、ただの説教じゃんと、と思われるようになってしまうのは、この意識のせいでしょう。

万人受けする記事を書いて、より多くのスキを集めて、フォロワー数を増やして、何かにつなげる(主に金儲け)のか、好き勝手なことを書き散らして、少数のフォロワーを大事にして生きていくか(ひょっとしたらゼロ人かもしれませんが)。

きっと、それは、どちらも「あり」の姿なのでしょう。ただ、どっちにも行かずに、世に受けないニッチな記事を書きながら、多くのスキを求めるのは、やはり中途半端な結果に終わるでしょうが。

私の場合、過去の記事を読むと、ずいぶん、まともになっちゃったなあとも思います。変なたとえですが、右も左もわからない傍若無人の新社会人だったのが、しだいに丸くなって、当たり障りがないことしか言わなくなった中年のように。

しかし、これはブログを始めた反省でも、悔恨でもなく、しょうがないことだなあと思っています。これがブログの限界だと。
だとしたらどうするか、やはり本当に言いたいこと、世の中を凍らせてしまうような言葉は、フィクションという器に入れ込むしかないのかなあとも思います。

フィクションの中では、悪徳宗教家になろうと、政治家を暗殺しようとも、一万人を虐殺しようと、だまし討ちしようと、革命を起こそうと自由なのですから。

さしあたり、このブログの限界。
さて自分はどちらに行くのか。行ってはいけないのか。最後は、自分がブログに何を求めているかにつきてしまうのでしょうが。
難しいところです。

ではまた

仲村比呂
小説家
主に小さい子から読める物語を作っています。文学は最強です。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次