文書を書くことは、割に季節に影響される。
当然ながら、花粉症と闘っているときに書く文章と、ぽかぽかと暖かくて庭先の桜でも見ながら書く文章はどこか違う。
そもそも内から出てくる言葉そのものが違っている。
おまけに体調まで悪いときには、何かを書こうとしたしたとき、生まれ出る言葉の候補に、自分自身驚くことがある。
「憎い」、「恨む」、「死ね」なんて言葉が次々に出てくるときがある。そういうときは、決まって精神状態が悪い、だいたいがストレスがもたらす言葉達である。
寒々しい曇天の下、そういった言葉をいくら書き連ねても、自分の心がさらに荒んでいくだけだ。
こうしたとき、表に出す前に、ぼーっとしながら、自分の中から出てくる言葉たちと、ひとまずは面接する。
「いったい、おまえたちはどこから来たのか?」と。
そうすると、彼らは必死に主張する「これこれこうだから」と。
そして、何とか、表に出してくれと懇願する。
しかし、表現者はそうした言葉を、安易に出してはならない。それが、表現者と、ただの愚痴を言う者の態度の違いかもしれない。
どの言葉も、発した瞬間にそうした言葉たちは、発した本人を乗っ取ってしまう。病的だと言えば病気っぽくなるし、「死」を唱えれば、それは、言霊となって、いつしか自分が死そのものになる。
かといって、すべての言葉と面接して、気に入らないと却下し続けると、そうした、吐き出されずに終わった言葉から復讐されるのも事実だ。
心の底から出た言葉は、消えることがなく、少しずつ腐っていき、腐臭を発し、気づかずに自分自身を損なっていく。心に出来た癌のように。
人というのは、言葉を発するべきときに、発するべき言葉を言わないと壊れてしまうのだろうと思う。
特に、普段からいろいろ感じてしまい、毎日心の底から次々と、溢れるほどの湧いてくる言葉と付き合って、言葉の面接ばかりして、疲れてし切ってしまうような人は特に。
自分が壊れる前に、何か発さなくてはならないと思う。
「助けて」と。それが、甘えや、どれだけ憎悪と、醜さと、反道徳まみれなものが裏側にあったとしても。
きっと、そうした叫びは、必ずどこかで誰かが聞いてくれている気がする。そして、その言葉が出た意味を理解して、受け止めてくれる人がいる。そう信じたい。
そして、そういう人がこの世にたった一人だけいれば、その本人は救われるかもしれない。
SNSは、よく罵詈雑言、悪口の場になっているなど、その功罪をいろいろと言われるが、自ら口を閉じてしまう人にとっては、あえて黙ってしまうことで、壊れてしまいかねない自分を、助けるためには、とてもいいツールだと思う。
より多くの誰かと、繋がらなくても、読者から何の反応がなくても、読み応えもなくても、それがただの空しい「叫び」であっても、稚拙な「書き殴りの詩」であっても、とにかく誰かに向かって言葉を発すること。
コンプライアンスの厳しさを増していく世界だからこそ、敢えて個人で封印した言葉たちは、もっともっと自由に、解放されていってもいいような気がする。
言葉でしか自由は得られないのだから。
“春めいて 言葉選びに 春兆す”