多様性、個性が大切と言われてずいぶんとたちます。
地球より重い命、自分と同じ人間はどこにもいない。だからこそ、かけがえのない命。唯一無二の存在。
オリジナルだから、大切にしなくてはいけないという理屈なのでしょう。
確かにそのとおりです。まったく異論はありません。しかし、それを個人レベルに要求されるって、結構プレッシャーではないでしょうか。
個性を持て。自分らしさ。そんなものを、人から求められたら、私は首をうなだれて、「そんなのありません」・・・というよりも、「ありませんでした」と答えるしかありません。
私自身、ほとんどの人に個性などないと思っています。悪魔の実でも食べない限り、しょせんは人間の誤差の範囲だと。そのわずかな誤差に無理矢理価値を見いだそうとするのは、無闇な比較、競争を導くだけだの社会的な煽りだと思っています。
「一人の人の命は地球よりも重い」。命が、歴史上重くなった試しもありませんし、今後も重くならないでしょう。
語弊を恐れずに言いますが、そもそも「私という存在」は、愛情に基づいた親子や夫婦を別として、本当にかげがえのない存在なのでしょうか。少し世間的に言われすぎな気がします。
ニュースを見ていれば、かげがいのない私など存在しないのは自明の事実です。ウクライナの戦争一つにおいても、簡単に「かけがえのない私」などの命は、爆弾一つで簡単にあっという間に奪われていきます。
地球どころか、そこらの家畜と同じレベルです。
少しの間でも組織というものの中で働いてみれば、それが大企業だろうと、中小企業だろうと、自分の替えなんていくらでもいるということ気づきます。かけがえのないどころか、ただの交換部品でしかないと。
どれだけ頑張っていても、自分がいなくなれば困ると思っていても、半年もすれば、別の人間が自分の席に座っているだけです。一年もたてば、いたことすらも忘れられるでしょう。
そんなとき、自分が大切。かけがえのない人だからと言われて育てられた人は、自分が、いくらでも替えがきくスペアでしかないとわかったとき、かなりの絶望感を覚えるでしょう。
かつて、村上龍さんのエッセイ「男は消耗品である」の中でも、社会から最初に突きつけられる「おまえは無力だ」という言葉を、まずは受け入れるところからすべては始まると書かれていました。そもでも、今はまだましです。江戸時代には「個性」という言葉すら存在しなかったのですから。
確かに、その対処を考えるとき、初めて「個性」が問われることになると思います。そんなの、そうそう学生時代に身につくものではありません。デフォルトで与えられてもいません。
よくクラスでいた、個性的な人というのは、ただの変わり者の別名に過ぎません。
そういった自分が無力だと痛感したとき、ふと他人がうらやましく見える。輝いて見える、彼らが語るの夢や成功や儲けの話は、とてもまぶしく聞こえるに違いありません。夢をかなえ金を手にすれば、その実存の無力感を補えるのだと。
しかし、その多くがただ、上手く利用されて、搾取されるだけでしょう。
かといって、自分に絶望して自暴自棄になったところで、消耗品にすらなれないで終わってしまうでしょうが。
社会にとってかげがえのない私になる。それは美しい夢です、ただの幻想でしかすぎせん。ほとんどの人にとっては、ただの無理ゲーです。結果として、うまく社会に使われてすり減るだけで終わってしまいます。
それでも、何とか認められたい。生きたという証明を勝ち取りたい。そのために必死になってベンチャー企業の有名社長、地下アイドルや、インフルエンサーになったとしても、結局のところは、見栄えのいい承認乞○(吉本隆明さんが命名)に陥るだけです。
「夢を持て」という言葉は、美しい言葉に聞こえますが、その裏にある「かけがえのない私」という言葉とは、裏表一体です。
つい、夢が叶わなければ、生きている意味がないと思いがちです。同時に、とんどの者は夢など叶わない。途方にくれる。それが、個性を大事にしすぎるという風潮が産んだ、現代の悲劇でしょうか。
誰もが自分に生きる意味を求めるのは当然です。しかし求めすぎて、かえって命すら失ってしまっては元も子もありません。
「まあ、自分なんて際だった個性もないし、そもそも個性なんてものも、よく自分ではわかんないし、あったとしてもそれほど価値はないかもしれない。だけど、まあ生きていれば、少しは誰かの役に立つこともあるだろう。だからとりあえず好きなことやろ」ぐらいな態度でいるのが、一番まっとうなのかもしれません。
と、少し処世術っぽいことを言いましたが、「かけがえのない私」という言葉を連呼する、ある歌手の歌が耳に入ってしまい、少し気になって書いてしまいました。
「かけがえのない私の幸せ」とは、私なんて社会的にはいくらでも替えが効く存在だけど、自分が愛する人からは、本当にかけがいのない私であるという、ある種の「実感」の中にあるだけかもしれません。
まあ、それも一瞬のはかなき幻想に過ぎないことも多いですが・・・。
ではまた