何を今さらかもしれませんが、Netflixに全シリーズが入ったので、何年かぶりに見直してみました。
久しぶりに見たら、当時はなぜあれほどヒットしたのかわからなかったのですが、今の感想として、これはこれでありなのかもしれないと思いました。
王道のストーリー、よく出来たセット、飽きさせないテンポ。作り込んだCGと、映像だけ見ますと、十何年ぶりの映画とは思えないほどです。
しかし、ひとつ気になったのは、「貴種」の扱いでした。
この映画が流行った二十年前は、今ほど異世界転生モノは隆盛ではなく、主人公は実は「○○王の忘れ形見」だったとか、「伝説の魔王の娘」だったといった設定も、まだまだ目新しくて、伏線にハマれば、結構感動して見ていましたが、最近のワンピースを始め、これだけ貴種モノが多くなりますと、少々食傷気味になります。
物語、特に児童文学、そしてファンタジーとなりますと、貴種だったという伏線を張りたくなる気持ちは痛いほどよくわかります。特に主役級だとストーリー展開がとても楽になります。
なぜ、この登場人物が強いのか、どうしてそんなに魔力があるのか、など、簡単に説明ができてしまうからです。相手の強さがインフレ化すればするほど効果的です。答えは簡単です、伝説の「貴種」だからです。
しかし、やはり鑑賞する側としては、登場人物が貴種だとわかると、やっぱりそうかと思うよりも、最近は、結局は「貴種」だったんだね。と、白けることの方が多くなってきました。
貴種が強いのは、現実の世界の中でもうたくさん。ファンタジーだからこそ、貴種じゃなく実力でのし上がっていくような、スラムダンクや、少し前のハイキュウ!などの、もしかしたら自分もがんばれば、なれるかもしれないというキャラが、これからはもっと求められるかもしれません。
我々はどうがんばっても、ジョジョにも、鬼滅の刃の煉獄さんにもなれませんから。
映画でもハリーポッターは、実は両親が伝説の魔法使いであり、ハリーも必ず、将来偉大な魔法使いになると、開始早々5分で、魔法学校の偉い校長先生にはっきりと明言しちゃっています。実は・・・というよりも、かえって小気味いいと思いました。
実は、このハリーポッターのシリーズというのは、貴種であるからこそのつらさや、ねたみ、プレッシャーを描きたかったのかもしれません。
貴種の主人公だからこそ、とんでもない試練を招いて、トラブルを解決するために、死ぬ気になって戦う羽目になる。そういう意味で言うと、この国には馴染みが薄い、ノブレス・オブリージュの精神をあらわそうとしたのかもしれません。
よく創業者の二代目が、会社をつぶすとよく言われていますが、実は二代目というのは、俳優も、国会議員も、歌手も、スポーツ選手も、結構大変かもしれないぞ。と思わせてくれました。
もしも、ハリーが間抜けな魔法使いで、その他大勢の生徒の一人だったら、卒業までも校長とも一度も口を利くこともなく、伝説の巨悪もと戦わずに、仲間を失うこともなく、のほほんと魔法学校を卒業して、三流の魔法使いとして楽しく人生を終えられたのかもしれません。
何十年かぶりに観たハリー、「貴種」の扱いが、創作者のはしくれとして一番気になったところでした。
ではまた