老子の言葉です。
昔は、悪いことをしたら、必ず天罰が下るという、ある意味、単純な因果応報的な意味に捉えていました。
最近になって、少し違うかもしれないと思うようになりました。本来、タオ(道)からすれば、人には「個(我)」というものがなく、ただ大いなる意識(空とも、仏性でも、イデア、世界精神でもいいですが)の一部でしかない。そうなると、自分の外側に天の網などがあるわけではなく、己の意識が天の網そのものであり、漏らさずというのも、自分の目に過ぎないと。
そういう意味では、悪人というのは、悪を自覚しながら敢えて行う人のことかもしれません(必要に迫られての場合もあり)。
当然ながら全てわかっている自分が、その悪を見逃すわけはなく、最後は自分の犯した罪の意識におののく、つまり罰せられるというわけです。
タオ(道)とは、「真善美」の実現だとすると、禍福はあざなえる縄のごとしということわざがあるように、当然ながら「真善美」がわかるためにはその逆、「偽悪醜」が存在する必要があります。
ただし、その「偽悪醜」に囚われたとき、あくまで本人の自覚がある以上、人の心は当然ながら荒んでいきます。だからこそ、その多くは、表向き法律や常識、悪徳として規制、禁止、低い価値とされているのでしょう。
本当の自由というのは、きっと真善美も、偽悪醜も、すべてわかっていながらも、同時にそれらの区別すら超越して、己に禁止も規制もする必要がなくなった状態を言うのかもしれません。
思ったこと、したいこと、そして好き勝手なことをしながらも、絶対に「真善美」の基準からはずれないこと。それも無理せずに。
それが、夏目漱石が目指した「則天去私」の境地であり、ある意味、悟りに近い心境かもしれません。
ああ、私もいつか仙人になりたい。
ではまた