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11月3日(日記)信心の間際に佇む

晴れ 雲一つない。
暑くもなく、寒くもない。
一年の中でも、あまりない素晴らしい日

陽気に誘われるように、父親が眠る東別院を散策。
がらんとした境内、きらびやかな大伽藍。
畳の上に座って、親鸞聖人の絵姿をぼーっと観ていると、
「ああ、親鸞聖人は極楽のイメージを、あの世ではなく、この俗世の中にこそ作りたかったのだ」と、急にわかったつもりになる。

しかし、信心までは行かない、というより行けない。
「南無阿弥陀仏心」と、心から唱えられて信じられたら楽だなあと思うけれど、たぶん、その瞬間から小説は書けなくなる、書く必要がなくなる。
それは、嫌だ。

ドストエフスキー、トルストイと、キリスト教
五木寛之さんと、親鸞聖人
立松和平さんと、道元禅師

小説家と信教の問題 
小説家はやはり、真理を求めて彷徨う、迷える子羊なのかもしれない。というよりも、そうでなくてはならない気がした文化の日。

文化とは、多くの先人達が、迷い迷った果てに生み出した蓄積物を言うのだろうか。
南無・・・。

枯れ葉散る ああして消えたき 我が命

仲村比呂
小説家
主に小さい子から読める物語を作っています。文学は最強です。

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