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誰もが一つのパワースポットかもしれない

パワースポットという言葉も世間的にすっかり定着して、未だにパワースポット巡りは相変わらず大盛況のようです。テレビ番組や雑誌でも、神社や仏閣、霊山や、霊場。様々なところが取り上げられていて、バスツアーすらあります。

私の友人にもパワースポット巡りが好きな知人がいますが、世の中には想像以上に好きな人がたくさんいるのでしょう。

そういうパワースポット巡りが好きな人を決して揶揄するつもりはないですが、私自身はそういった御利益はほとんど信じていません。

だからと言って、「この石に触ったら御利益があります」と友人に言われれば、変な理屈をこねたり、頑なに拒否したりと言ったようなことはしません。とりあえず触っています。友情を失ってまでわざわざ主張することでもないですから。

それどころか、願い事をいくつか言ったりもします。ひょっとしたらこれは人知を超えた存在で、本当に御利益があるかもしれないという邪心が湧いてしまうからです。

それは信じる信じないとは別次元の話です。パワースポット側も、おまえはおれの存在を信じていないから、パワーは分けてあげないとは言わないでしょう。

たまに、そういう御利益があると言われている石のそばには、それこそ生き神を見るようにひれ伏し、真剣に祈りを捧げている人たちを見かけたりします。

もちろん、そういう人の中には、本当に重い病や、理不尽な運命に翻弄されて不幸を感じている人もいるとは思います。しかし、そのほかのほとんどの人は、テレビや雑誌を鵜呑みにして、ご利益だけを得ようと思っているだけでしょう。

一日をかけて、あちこちのパワースポット巡りをするためのツアーもあると言います。こういう話を聞くとさすがに少し違和感を抱きます。

そういう人たちにとってのパワースポットという場所は、数多く回ればそれだけご利益があり、神様や、精霊に感謝や敬意を払いながらも、最終的には「試験に受かるように」だったり、「運(お金や仕事)が向くように」だったり、「恋人が出来ますように」といった現世利益を叶えたいというの内容がほとんどだと思います。

ツアーで短時間にいろんなパワースポットを巡って、そのたびに同じ願掛けをして、なんとも思わないのか少し不思議に思います。

そもそも救いとは何かを考えないで、どこの何が救われると言うのでしょう。正直言って、こういうパワースポットを巡るだけ、巡ってひたすら現世利益だけを求めるのは、ちょっと引いてしまいます。変なたとえですが、百貨店のバーゲン会場で、気に入った服を我先に争いっているのと同じように感じてしまいます。

そうだとしても、そもそもパワースポットという外部要因で救われてうれしいのでしょうか。願いの質もありますが、それで小さな願いが叶ったり、お金が入って来てうれしいのでしょうか。恋人が出来てうれしいのでしょうか。どこかさもしい気がします。

もし叶った願いのお礼に行くにしても、どのパワースポットのご利益なのかはっきりわかるでしょうか。私がもし、願いを叶えたパワースポットだったら、きっと、むっとして迎えることでしょう。一つのパワースポットは、それなりのルーツや歴史があり、それを踏まえてこそのパワースポットなのですから。プラスがあるだけ、マイナスもあるはずです。

私が思うのは、お金がないと悲しみながらも、そうしたお金をどうやって稼ぐのか、そもそも、自分にどれだけのお金が必要なのか、お金はどういう存在なのか、それを得るために何をすべきなのか、捨てるべきなのか。それを全部自分で決めるられることこそが生きる醍醐味だと思っています。

パワースポット巡りなどは、そういった人生の醍醐味を自ら捨てているようなもののような気がします。パワースポットに真剣に願いをすればするほど、他力本願なり、自分の人生のハンドリングを誰かに手渡しているのと同じになってしまいます。

おそらくそういう人は、新たなる試練が来れば、再びパワースポットやそういった場所にすがるようになるでしょう。

話は少しずれますが、パワースポットというのは究極的には神がいるかいないかという話になるのだと思います。私自身は、神はいるともいないとも思っていません。

「わからない」というのが本音ですが、もう少し厳密に言えば、“いるかもね”という気持ちに近いです。

神の実存については、哲学的推論に委ねるとして、哲学者のカントではないですが、認識できない存在のすべては、“いるだろう” 又は “あるかもね”の 二言で済ませられると思っています。

それ以上のことについては、全てはファンタジー、つまりただの神話に過ぎません。

パワースポットを前にしても、自分の抱えている悩みや苦しみからすべて解放してもらおうとはあまり思っていません。万が一目の前に万能の神様が現れて、楽にしてあげようと言われても断るつもりです(嘘です。かなり精神的に弱っていたらわかりません)。 

こうした、真剣にパワースポットを巡りをしているような人は、基本的に優しい人、いい人が多いと思っています。心を病んでいて何とか回復したいと思っていたり、傷ついて立ち直りたいと思っていたりする方達だとは思います。

最後の最後に、何かにすがる気持ちで、パワースポットを訪れるのは否定しませんが、それでも、人生のハンドリングを他の何かに委ねてしまうようなことになるのは、何かもったいない気がします。

もし、現実の中で、借金があって首が回らないなら、自己破産を検討する。パワハラでうつ病気味なら思い切って辞めればいい。現実の問題を超常的なことに委ねずに、まずは現実的な手段を考えることが先決だと思います。

もちろん言葉にするのは簡単で、それが出来ないからこそすがるというのもわかりますが、現実の中で起きた悩みは現実の中でしか解決できません。

そして、その悩みを自分の手で解決したときこそ、新しい自分を手に入れ、新しい人生を生きられると思います。さらには、それで得たかけがえのない経験を、他人に伝えることで、きっと誰かに影響を与え、導きうるパワースポットのような存在になり得ると思います。

青い鳥の童話のように、得体のしれないパワースポットを外の世界に探して疲れ果てるよりも、つまり自らがパワースポットになってしまえば、わざわざ貴重なお金と時を使って、パワースポット巡りをする必要はありません。
それに、もともとは、誰しも生きている限り一つのパワースポットだと思いますから。

と偉そうなことを言いながらも、神社に行くと必ずおみくじを引いてしまうのですが。
ではまた

仲村比呂
小説家
主に小さい子から読める物語を作っています。文学は最強です。

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